いやはや、今日も暑い。
暑いのは、なんとかやり過ごすことが出来たとしても、雨がない。
雨の予報も、ずっと無し。
秋の野菜の作付も進めたいけど、・・・・、という感じ。
この昼の暑い時間に、長々とブログを記す。。。


新規就農とか、農的暮らしとか、自給自足とか、半農半Xとか。

そこら辺りを、もう一度見つめ直している。

まずは、なぜ自分が農の道に進もうと思ったかをここにきて、もう一度振り返ることから・・・。

そして、今の農業や食糧事情、食品の正しさなどの置かれた位置、あるいはまた放射能の対応などで見えてきた社会の歪、これらをいろいろと総合し、これからの生き方の指針を考えている。
 それに加えて、我が家のゲストハウスが有効に活用できていないということや、娘という次世代へ残せるものとか、多くのこともリンクしていろいろと想うことが満載である。

今回のブログは、自分が「これから実現してみたい想い」に賛同していただける方がいないだろうか?
その呼びかけでもありますし、10年という区切りのメモとして記してみる。


まず、自分が農の道に進もうと思ったことを、心の奥底に問いかけてみた。
もう10年以上も前にさかのぼるので色づけしてしまう自分がいるかもしれないが、やはり「自然にたわむれた生き方をしたい。」というのが根底にあったことは間違いがない。
 この想いの裏側には、農へのあこがれだけではなく、サラリーマン生活での「追い立てられた時間の暮らし」への疑問も確かにあった。また、当時の仕事の実務そのものは楽しかったけれども、会社という組織に属することで、少しずつ入り込んできた理不尽さに嫌気がさしたことも事実としてはある。
 そして、「もっとのんびりとした気持ち」で暮らせないものなのか?という想いも駆け巡った。
この「のんびりと・・・」という想いが、本当の本音の部分に相当する気はしている。

農業を始めた当初の想いの中には、農業という属性の仕事によって売上を上げることによる成功(のようなこと)を目指すつもりは、ほとんどなかった。でも、行うからには数字による目標設定をしたし、それがモチベーションを上げるには簡単な意識付けだった。
 そして、どのようにすればお客さまに増えてもらえるのか?という想いと行動は、嫌味な感じではない楽しさがあったし、美味しいと喜んでいただくことと、無農薬での野菜という食べ物を送り出す仕事は誇りも感じた。

このような流れの中とモチベーションでは、朝の5時前から夕方の日の入りまで作業を続けることは全く苦にはならず、楽しく、そしていろいろなありがたいつながりの中から売上という数字も順調に伸びていった。
 この数字の伸びによる楽しさと同時に、少しずつではあるが疑問が生じてきた。でも、疑問は大きく自分を変えることなく、数字の伸びという楽しさを楽しんでいた。
 でもでも、その数字と引き換えと同じくらいに、脱サラする以前の時間やいろいろな物事に追い立てられてしまう自分の暮らしや思考に戻っていることを薄々とは感じていた。

そして、311を迎える。

311以前から、原発や放射能に関する危険性は認識をしていた。実際に多大な放射能がふりまかれた社会のとった選択は、命の重みよりも経済性だった。これに、愕然とした。
どんどんと情報は交錯し、今まではちょっとの放射能漏れさえも危険とか言っていたはずなのに、あの日を境に、低線量の被ばくは問題ないという論調が多くを占めるようになった。
放射能そのものの危険性以上に、この豹変ぶりに怖さを覚えた。

311の2か月前に、我が家にも新しい家族が増えた。
小さな命は、不思議で不思議でたまらなかったし、今でもその不思議な想いは変わらない。
あのタイミングで、新しい命と出会ったことも、大きな意識の変化の一因だろうと思う。

放射能の対応への疑問と同時に、経済性というものを中心とした暮らしの「良きところと悪いところ」を客観的に見えるようにもなってきた。
 経済性という、いわゆる競争原理によって発展と呼ばれるもの、あるいは便利と呼ばれるものが、いろいろな視野を広げたことは間違いがないし、ありがたい側面は多大にある。
 でも、悪しきところも露呈をし始めた。
悪しきと思えることは数限りなくあるが、農という食糧生産の最前線にいる自分の中には、正しくあるべきの食が経済性の中で犯されていることに、心から疑問を持つようになる。

経済性の良きところは、ピークを越えたのだろうと思っている。
それは、たぶん、80年代に超えたいた気がする。
ピークを越えたことを素直に見つめて方向を転換する社会であれば、多大な理不尽さは生まれることが少なかったと思うが、この経済至上主義はそれを許さない構図である。いつまでも右肩上がりでなければならない。でもしかし、消費行動は物が満たされれば増えるはずもない。増えるはずもないのに、いろいろな付加価値と呼ばれるものを、無理して付随させているようにしか見えない自分である。

この無理して付随させることは、何かを失っていることが明確に見えてきた。

それは、ありきたりの言葉ではあるが、地球という自然が与えてくれたものを、これでもかと蝕む暮らしに拍車をかけている気がするし、たぶん実際にその路線は進んでいると思う。

10年前の新規就農を目指した時に感じた「自然にたわむれた生き方をしたい。」の想いが、ここで蝕まれている事実の中に埋没しそうな自分がいることを、残念だけど、見せつけられている今。

つまりは、自分の想いの原点になんとか帰ってみたい、帰るべきが自分の求めていた楽しさだろうと、ごく最近は強く思えている。
それを、やっぱり実現させたい・・・という想いだ。



長くなったので、ここで、一度終わり。。。。