雑記!

獣たちとの共生のアイデア

栃木県佐野市まで、出向く。

いっしょに行った石毛さんのFBコメントから・・・。
『猪、鹿、猿が住む山と里の境に、現代の猪鹿垣(ちょろくがき)を設け、ヒツジとヤギを放牧したところ獣害が減った。動物と人がもちつもたれつ暮らす幸せなコミュニティ。』
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この羊と山羊たちが住むことによって獣害防止&耕作放棄地の草刈りを軽減させようとしている取り組み。

羊や山羊をフェンスで囲いながら放牧することで、里山と畑の間に緩衝ゾーンが造られ、また草刈りの軽減と共に、草が生い茂るゾーンが無くなることで獣の隠れ場所がなくなっていく・・・というサイクル。
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このプロジェクトの大きなポイントは、獣医さんとのタッグが大きいらしい。
ご理解のある獣医さんが、地域の中に溶け込んで活動をされている様子。

また運営費は、フェンスそのものは助成金ではあるが、カレンダーの販売益や山羊のオーナー制度、また都市部住人との交流イベントなどなどのアイデアが盛り込まれている・・ということをお聞きする。

獣たちと人間生活の領域を自然な形で共生できることを目指す取り組みに、大いに共感した訪問見学だった。

う~む??? 無償のモノなのになあ?

大地に種を蒔く。
種は、そこで育ったものから継ぐ。

育つのは、無償で与えられた太陽の光と雨の水と循環する大気。
人が創造している訳ではない。

人が手を掛けるのは、種を蒔くことと、少しでも多く収穫できるようにする時。

なぜ?自分たち家族が食べる以上の収穫を行うのか?、目指すのか?。
それを売って、他のモノを買うため。

野菜やお米などは、大地が与えてくれた無償の贈り物なのだが、換金する。

多く収穫するために、手を加えた労力が換金分として加算されていく。

その手を加えた労力の源は、何もない所から生まれくる命と体。

生き物は、食べ物がないと生存が出来ない。
でも、その生存の源は、無償で与えられたモノで成り立っている。


記憶の能力に基づく学習能力、何かを開発する知力、手先の器用さ・・・・、
その源は、何もない所から生まれくる命と体。

スポーツの才能、音楽の才能、芸術の才能・・・・、
その源は、何もない所から生まれくる命と体。

個々に与えられた才能、また、それを換金すること・・・、
その源は、何もない所から生まれくる命と体。。。。。。

徒然なるままに。 次元の中に人命を想う。

イスラム国の人質の事件が起こっている。

大きく扱われる人命尊重の動きや感情の揺さぶりの陰では、例えば、毎日のように電車が止まり年間3万人(毎日100名弱)と呼ばれる自殺される方の命の問題を掘り下げる動きは少ない。
毎日100名の方が、なんらかの出来事によって命を絶たれてしまう環境が存在している。

人質に取られた人命と、自殺される方の人命に違いは全くない。
でもしかし、何か?別のモノ・出来事のように感じる扱われ方や自分たち庶民も含めた、この違和感。
 
 一般的な感情論で言えば、人命をマネーの引き換えに行うことは卑劣なこととされている。
もちろんその通りではある。
 その通りのはずなのに、日頃の暮らしの中には競争原理(=マネーへの呪縛)によって究極的には引き換えが存在している。
どこにも違いがないはずなのに、違うものという感覚に包まれる日常への嫌悪感。

 人質の方の論議はされるが、ミサイルのような甚大な武器が街角に打ち込まれ、名も知れない幼い子供が亡くなることには、どこか別の出来事のように感じさせる社会システム。

何かが違うのではないのか?
自分も含めた今に流れる価値観が、底辺では矛盾に妥協しすぎている気がする。
もっと、もっと大きな枠で価値観を見つめ直す次元に来ているのだろうと感じる、自分の中の次元。

この矛盾の中に立ち向かおうとすればするほど、かなり厳しく、きつい。
でも、ほんの少しでも、自分は向かう。
自分の次元の中だから、死ぬまでには、なんとか変化させることが出来るはずだ、と信じて。。。

次の扉を開くために、想う。

とうとう、憲法改正に進んでしまう。

近代の思考と行為の根源にあるのは、すべて「今のシステムの経済マネー」を廻すため。
 いわゆる「正義への想いがぶつかる戦」は何処かにはじかれ、実体のないマネーシステムのために人々の身体と健康、そして環境も含めて軽視され、廻り廻って環境売買はもちろん、次に売るものとして人身が経済売買される方向に、より進む。

311以降、加速度的に何か不穏なシステムが構築されていることが見えてきたが、本質は放射能対策への道筋だろうと思っている。

集団的自衛権という名目は、徴兵制への道筋の大義名分。
そして秘密保護法に関しては、これから爆発的に目に見える形で襲ってくるであろう、健康疾患の隠蔽に使われる。

 この徴兵制を(あるいは、それに近い雰囲気や名目だけでも)設置することで、原発後処理の要員を増やすことが出来る。
 福島の原発の後処理ひとつとっても、数十年単位の年月が必要である。
また、他の原発の廃棄処理をするにも莫大な時間が必要であるし、廃棄物の処理を確立するには人的な健康を軽視してでも推進するしかない。

その人員を確保する手段として、徴兵制(に近いもの)を経済的な縛りによって構築することで、過去の日本という国民すべてが享受してきた「便利さ」のツケを払っていく。


日本は、経済・植民地なのである。
自国の食糧自給率はいつの間にか低下させられ、戦争の武器など必要としないで日本国は支配されている。
その意味では、もはや奴隷状態となっている。

この植民地としての陰な部分の中で、放射能処理を押し付けられていく。

TPPの締結によって、あらゆるものの思考がグローバル化される中で、日本と言う島国は地球全体の核廃棄物の処分場として位置付けされ、公に進められる。

 現代の戦争なんて、本気になって攻めれば、あっという間にどちらかが廃墟と化すほどに膨れ上がっている。
そんなバカげたことは、やらない。
じわりじわりと小出しにして、軍事産業という経済によって、生かさず殺さずで使われる。
 日本と言う国を軍事的に占領しても、わずかな水が資源としてあるだけで特に優位性はない。
なので、占領という行為をしてもメリットはほとんどない。

 表向きは、軍事的な名目で憲法を改正していくのだろうが、それを利用して放射能に立ち向かわされる。
だから今も原発も推進をしておかなければならない、という計算も働いている。

日本民族が優位性を持っているのは、その勤勉的な思考と頭脳。
世界はこれを利用して、放射能の抑え込みの技術を確立させてたいはずである。
それには、どうしても過渡期としての人的な被害は一時的には避けられないはずであり、その道筋を背負わされた、と感じている。

庶民の自分たちは、放射能の抑え込み技術の確立にはもちろん協力をするが、過渡期であろうと人的な被害は出さないように努力すべきである。
 全ての情報をきちんと公表し、影でこそこそするのではなく、皆の叡智を集結して進めることで次の扉は開く。

 踊らされることなく、そこをしっかりと見つめて、次世代にこれ以上ツケばかりを残さずに生きるべきだと思っている。

もっと、カッーと目ん玉おっ拡げて、目先のちっぽけなマネーに踊らされずに「内なる想い」から生きる。
すべては自分たちが享受してきた、いわゆる「便利さという欲」から招いた災いである。

便利さという欲を少し抑制して生きるだけでも、次世代へのツケは減っていく。
それは自分たちが簡単に出来る行いである。

自分は、そこに向かう。

事故後、7~8年目。

事故後の7年目、93,5に取材・報道された4回シリーズ。

その最終回として94,7に報道されたもの。


福島の事故後に取材や編集をされたものではなく、93や94年に放送されたということを、しっかりと見つめるべきだろう。
 
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