雪が降った。
それなりに降ったが、夕方にはかなり融けた。
確定申告の作成をしながら、午後からは「豆腐作り」を。
自家栽培の大豆はあれど、納豆と同じように豆腐もついつい購入してしまう関係を断ち切りたくて自家製豆腐作りに挑戦。
ネットで作り方を調べて、お隣のフジさんといっしょに。
作り方にならって呉汁を作り、温めたり、にがりを入れたり・・・・。
木枠に流し込んで・・・・。
おお!・・・豆腐としてお目見え~~。
昔々に作ったことがあったが、木枠の豆腐作りは初めてのこと。
今日は2回行い、1回目はアタフタとしてしまって少し焦がしたりなどの不具合があったが、2回目はスムーズに出来た^^。やはりネットのレシピを見ているのと実際に行うことでは感覚が違う。
この豆腐。
大豆は300g。
出来上がりの豆腐は約650gほど、いわゆる約2丁分。
単純に大豆の販売価格とニガリの費用だけで約350円ほど。
つまり一丁が約175円。
市販のものと比べると、この材料費だけでかなりの高額なものになる。
(加工賃は含まず・・・)
皆で、高級品?だよね~・・・との会話になる。
・・・・でもよくよく考えると、この価格とはなんだろうか?と思う。
大豆の種を蒔き、草取り作業を行い、収穫して、脱穀して、選別作業を行って・・・。
これを総合して大豆の価格を100円/100gとして販売している。
販売している価格のほとんどの原価は自分たちの体を動かした手間賃である。
もちろん脱穀機械の借り賃やガソリン・電気なども含まれるが・・・。
これが、高いのか?あるいは安いのか?
・・・高いといえば高いかもしれない、いわゆる廻りの市販価格と比較すれば・・・。
でも安いといえば安いかもしれない、自分たちの労働対価の設定を世間の時給と比較したら・・・。
まあ堂々巡りとなって、結局は価格というものは有って無いようなものだ・・・・という結論になる。
自分たちが食べるものを自分たちの手で作ることで、高いも安いもないのだ。
現実に目の前に自分たちが手がけた食べ物がある。
だたそれだけなのだ。
ましてや育つためのエネルギーは太陽の光、雨の水、大地の栄養、野菜たちそのものが子孫を残そうとするあたり前の営みの産物。
つまり、前にも記した「無償で与えられたモノ」から成り立っている。
草を取ったり、脱穀したり・・・の手間はある。
でも、育てたのは人の手ではなく自然の恩恵だ。
この自然の恩恵に対しては価格はなんにも転嫁されていない。
このような価格評価を考えながらも、無農薬の国産有機大豆は高い!との評価になっているが、行う作業は全く持って特別な事はしていない。あたり前すぎる作業を行っているだけのことであって、ここから算出される価格が標準であるはずと思う。つまりは、世間の大部分に出回る大豆の価格が安い・・・ということでしかないと思える。
でもしかし、この標準だろうと思っている価格から安いを考えた時に、ではこの安くなる要素はどこで削られていくのか?を考える。
大多数の日本での大豆は輸入の大豆。
アメリカとか中国とかの大規模な農地で大量に栽培されている。
この大量に栽培されるものとの比較なだけであるのだが、機械を使ってガソリンを使って農薬を使って、遺伝子組み換えを使って・・・、この結果の価格である。
ここで、むちゃくちゃ単純に考えて、この大規模栽培に使われる機械と燃料(石油)を考える。
機械は鉄鉱石から作られる。燃料は石油。
この2つはやはり自然の恩恵の産物である。
無償で与えられたものである。
採掘とか運搬とか加工や機械の作成手間の費用は加わっているが、現物は大地から無償でいただいたものということを忘れがちになる・・・。
・・・・と、経済学と呼ばれるものに対して素人なので深く掘り下げることはもちろん出来ないが、無償でいただけるものをどのように価格設定してあるのか?
誰が勝手に大地の産物に価格をつけているのか?その根拠は?
大地の産物に価格を設定する権限?は誰にあるのか?
・・・なんだか、そのような事まで考えるスパイラルに陥る。。。。
この大地から無償でいただけるものに価格というものを設定している人たちの思惑によって、世間の価格は決められている気がするがどうだろうか?
元々が無償なものに価格を設定できる権限。。。
その権限者は、たぶん銀行の人ではないのか?
採掘する時にお金というものを貸し出して設備をそろえる。
そして、借りたお金に利息が生まれる。
この利息というものは「全く何にも無い所から」またもやお金を生み出す。
利息というお金と言っても、時間軸の中で帳簿の中に数字が積みあがっていくだけなのだ。ただ、その帳簿に数字を書き込むことを世間から認められた?というだけのことであるだろう。
たったこれだけ。
ペンでもって、ちょちょいと数字を書くだけ。。。
これで、大豆の値段が安いとか高いとか・・・そんな底辺までつながっている。
・・・元に戻って考える。
自分たちが作った大豆と豆腐には、高いも安いも無い。
大地の恩恵をほぼ無償でいただいた結果なだけ・・・。
こんなことを考えると、仕事という経済活動とはなんなのだろうか?とまで考える。
適正な利益とは、どこに設定されるべきであろうか?と考える。
適正な利益は社会貢献となるのだろうけども、この社会貢献とは何に対する貢献だろうか?
無償で与え続けてくれる大地という社会の根源への貢献は含まれているのだろうか?
無償でいただけるものを搾取しているだけではないだろうか?
大地から植物の芽が出る。
季節の巡りによって、その季節に合わせて芽が出る。
大地の恩恵、営み。
あたり前すぎると想える。。。
あたり前のことを大事にしなければ。。。
・・・・と、なんだか長々とまとまりなく、そのように想う。
それなりに降ったが、夕方にはかなり融けた。
確定申告の作成をしながら、午後からは「豆腐作り」を。
自家栽培の大豆はあれど、納豆と同じように豆腐もついつい購入してしまう関係を断ち切りたくて自家製豆腐作りに挑戦。
ネットで作り方を調べて、お隣のフジさんといっしょに。
作り方にならって呉汁を作り、温めたり、にがりを入れたり・・・・。
木枠に流し込んで・・・・。
おお!・・・豆腐としてお目見え~~。
昔々に作ったことがあったが、木枠の豆腐作りは初めてのこと。
今日は2回行い、1回目はアタフタとしてしまって少し焦がしたりなどの不具合があったが、2回目はスムーズに出来た^^。やはりネットのレシピを見ているのと実際に行うことでは感覚が違う。
この豆腐。
大豆は300g。
出来上がりの豆腐は約650gほど、いわゆる約2丁分。
単純に大豆の販売価格とニガリの費用だけで約350円ほど。
つまり一丁が約175円。
市販のものと比べると、この材料費だけでかなりの高額なものになる。
(加工賃は含まず・・・)
皆で、高級品?だよね~・・・との会話になる。
・・・・でもよくよく考えると、この価格とはなんだろうか?と思う。
大豆の種を蒔き、草取り作業を行い、収穫して、脱穀して、選別作業を行って・・・。
これを総合して大豆の価格を100円/100gとして販売している。
販売している価格のほとんどの原価は自分たちの体を動かした手間賃である。
もちろん脱穀機械の借り賃やガソリン・電気なども含まれるが・・・。
これが、高いのか?あるいは安いのか?
・・・高いといえば高いかもしれない、いわゆる廻りの市販価格と比較すれば・・・。
でも安いといえば安いかもしれない、自分たちの労働対価の設定を世間の時給と比較したら・・・。
まあ堂々巡りとなって、結局は価格というものは有って無いようなものだ・・・・という結論になる。
自分たちが食べるものを自分たちの手で作ることで、高いも安いもないのだ。
現実に目の前に自分たちが手がけた食べ物がある。
だたそれだけなのだ。
ましてや育つためのエネルギーは太陽の光、雨の水、大地の栄養、野菜たちそのものが子孫を残そうとするあたり前の営みの産物。
つまり、前にも記した「無償で与えられたモノ」から成り立っている。
草を取ったり、脱穀したり・・・の手間はある。
でも、育てたのは人の手ではなく自然の恩恵だ。
この自然の恩恵に対しては価格はなんにも転嫁されていない。
このような価格評価を考えながらも、無農薬の国産有機大豆は高い!との評価になっているが、行う作業は全く持って特別な事はしていない。あたり前すぎる作業を行っているだけのことであって、ここから算出される価格が標準であるはずと思う。つまりは、世間の大部分に出回る大豆の価格が安い・・・ということでしかないと思える。
でもしかし、この標準だろうと思っている価格から安いを考えた時に、ではこの安くなる要素はどこで削られていくのか?を考える。
大多数の日本での大豆は輸入の大豆。
アメリカとか中国とかの大規模な農地で大量に栽培されている。
この大量に栽培されるものとの比較なだけであるのだが、機械を使ってガソリンを使って農薬を使って、遺伝子組み換えを使って・・・、この結果の価格である。
ここで、むちゃくちゃ単純に考えて、この大規模栽培に使われる機械と燃料(石油)を考える。
機械は鉄鉱石から作られる。燃料は石油。
この2つはやはり自然の恩恵の産物である。
無償で与えられたものである。
採掘とか運搬とか加工や機械の作成手間の費用は加わっているが、現物は大地から無償でいただいたものということを忘れがちになる・・・。
・・・・と、経済学と呼ばれるものに対して素人なので深く掘り下げることはもちろん出来ないが、無償でいただけるものをどのように価格設定してあるのか?
誰が勝手に大地の産物に価格をつけているのか?その根拠は?
大地の産物に価格を設定する権限?は誰にあるのか?
・・・なんだか、そのような事まで考えるスパイラルに陥る。。。。
この大地から無償でいただけるものに価格というものを設定している人たちの思惑によって、世間の価格は決められている気がするがどうだろうか?
元々が無償なものに価格を設定できる権限。。。
その権限者は、たぶん銀行の人ではないのか?
採掘する時にお金というものを貸し出して設備をそろえる。
そして、借りたお金に利息が生まれる。
この利息というものは「全く何にも無い所から」またもやお金を生み出す。
利息というお金と言っても、時間軸の中で帳簿の中に数字が積みあがっていくだけなのだ。ただ、その帳簿に数字を書き込むことを世間から認められた?というだけのことであるだろう。
たったこれだけ。
ペンでもって、ちょちょいと数字を書くだけ。。。
これで、大豆の値段が安いとか高いとか・・・そんな底辺までつながっている。
・・・元に戻って考える。
自分たちが作った大豆と豆腐には、高いも安いも無い。
大地の恩恵をほぼ無償でいただいた結果なだけ・・・。
こんなことを考えると、仕事という経済活動とはなんなのだろうか?とまで考える。
適正な利益とは、どこに設定されるべきであろうか?と考える。
適正な利益は社会貢献となるのだろうけども、この社会貢献とは何に対する貢献だろうか?
無償で与え続けてくれる大地という社会の根源への貢献は含まれているのだろうか?
無償でいただけるものを搾取しているだけではないだろうか?
大地から植物の芽が出る。
季節の巡りによって、その季節に合わせて芽が出る。
大地の恩恵、営み。
あたり前すぎると想える。。。
あたり前のことを大事にしなければ。。。
・・・・と、なんだか長々とまとまりなく、そのように想う。