久しぶりにトラクターに乗る。
田んぼの秋の荒起こしを、やっと行えた。
畑は、ほぼトラクターでの「全面耕起」をストップしているが、田んぼを不耕起にするまでは至っていない。
先日行った収穫後のワラを切りワラにしたもの、土の中に混ぜ込んでいく。
まあ、あたり前過ぎる作業ではあるのだが、近代の稲作形態では常識とされていることに、ほんの少しは疑問を持ちながらトラクターの上でのんびりと考えたりもする。
別に、不耕起がいいとか、トラクターがダメとかの区分による良し悪しではなく、ただただ、あたり前という事そのものに疑問を持つことも、あり、ではないか?ということを考えながら。
トラクターの効能は、作業の効率化や肉体的な疲労の軽減など、多大な功績をあげているとは思う。
歴史的に考えれば、戦後の食糧不足の時期に思考された大量生産・大量供給の実施など。
そのような歴史を過ぎて、食生活のスタイルや世界から食の輸入なども変化したことで、今はお米が過剰とされる時代となった。
この時代に、賃金確保を成すために更なる機械化や効率化を求めているが、貨幣経済の中では苦戦を強いられている農業の実態となってしまっている。
それに伴って農作業に従事する人も減っていく構造が追い打ちをかけて、効率化スパイラルに陥っている。
トラクターという目の前の事象ひとつでも、便利さを求めた結果に流れ来る「本来の必要な姿」が変化し、何処かに追いやられている。
自然の中に生かされている人類という動物は、その姿の変化をキープするために、環境というモノを食いつぶしている気がしてならない。
どこで?そのスパイラルに気が付くのだろうか?と、最近は、いつも思うのだった。
また、重量のあるトラクターが土の上を走り回ることによる鎮圧での耕盤層の形成や、人為的に細かく粉砕された土の再固着などによる土の更なる凝固を引き起こす弊害もある。
この弊害は、微生物層などの目に見えない営みに影響を及ぼし、いわゆる自然な流れによる土の形成ではないがために、常に人為的な労力を加えなければならないサイクルも引き起こしている。
地球という環境は、光や空気や水、また鉱物や石油資源などなどの多大なモノを無償で与えてくれている。
その無償で与えられているモノを「あたり前」だと疑問を感じないがために、いろいろなモノが見えなくなっているのではないか?などとも思う。
自分も、もちろん、大多数の人が気が付いていない、というか、忘れている気もする。
「あたり前」ということを、たまには疑問を持って暮らすことも大事なアイテムだと思うのだった。
そんな想いで始めたのが、不耕起・無肥料での栽培への挑戦。
やっとホウレンソウが育つ土に変化を始めてくれている。
有機農業を行っている時でも、ホウレンソウの育つ環境になるのは少し時間がかかったように思う。
特に、酸性・アルカリ性のPH濃度が重要だと教わり、石灰などの投入によって調整することがあたり前だと思っていた。
でも実際は、何も施さなくても、このように育ってくれる。
教えられた常識とされるものが、見事に覆された現実だ。
このような姿を見てもまだ、肥料は必要だと言う声は、他からも自分からも聞こえてくる。
それは、今の社会の中で暮らすための賃金確保という名目があるからである。
賃金的なことを、もちろん全否定はしない。
ただ、経済というモノは、効率や不効率の中で育まれていく回転なだけ、なので、その回転スピードが変化すればいいだけのことだと眺めている。
今の回転は、無償で与えられているモノを、無限なモノという勘違いの前提で進んでいる気がする。
特にこの日本や、先進国と呼ばれる国々、もちろん自分たちという個々も含めて、物質的なものはかなりの部分で満たされているのだが、未だに前世代的な、物理的な「モノが欲しい」という前提条件の中でもがいている気がする。
時代が求めるモノは、いつの時代も変化をしている。
もうそろそろ、それなりに大きく変化をするとは思うし、それに伴った経済スタイルへの思考の変化に向けて、ちっぽけな自分からも始めようと思う。
経済は、1人では廻るものではないが、何かのスタートは、常に少人数からである。
別に、物理的な通貨スタイルを代えるということではなくとも、使い方やもらい方、その他の多くの事柄を、まずは自分の無理の無い範囲で変化を始めてみよう、と思う。
まあ、節約というか?今、あるものを大事に使うというか、これは「あたり前」のことになるのだけれども^^・・・。
こちらは、種まきを遅らせた冬越し用のホウレンソウ群。
いわゆる冬草と共生しながら、春まで待つ姿となっている。
これから寒い冬を迎え、それを越すことで創造される甘い糖分を自分たちに与えてくれる。
こんな姿を目の前に眺めながら暮らせる豊かさをありがたく想うし、これからも、この視点は大事にしたいと心から思っている。
田んぼの秋の荒起こしを、やっと行えた。
畑は、ほぼトラクターでの「全面耕起」をストップしているが、田んぼを不耕起にするまでは至っていない。
先日行った収穫後のワラを切りワラにしたもの、土の中に混ぜ込んでいく。
まあ、あたり前過ぎる作業ではあるのだが、近代の稲作形態では常識とされていることに、ほんの少しは疑問を持ちながらトラクターの上でのんびりと考えたりもする。
別に、不耕起がいいとか、トラクターがダメとかの区分による良し悪しではなく、ただただ、あたり前という事そのものに疑問を持つことも、あり、ではないか?ということを考えながら。
トラクターの効能は、作業の効率化や肉体的な疲労の軽減など、多大な功績をあげているとは思う。
歴史的に考えれば、戦後の食糧不足の時期に思考された大量生産・大量供給の実施など。
そのような歴史を過ぎて、食生活のスタイルや世界から食の輸入なども変化したことで、今はお米が過剰とされる時代となった。
この時代に、賃金確保を成すために更なる機械化や効率化を求めているが、貨幣経済の中では苦戦を強いられている農業の実態となってしまっている。
それに伴って農作業に従事する人も減っていく構造が追い打ちをかけて、効率化スパイラルに陥っている。
トラクターという目の前の事象ひとつでも、便利さを求めた結果に流れ来る「本来の必要な姿」が変化し、何処かに追いやられている。
自然の中に生かされている人類という動物は、その姿の変化をキープするために、環境というモノを食いつぶしている気がしてならない。
どこで?そのスパイラルに気が付くのだろうか?と、最近は、いつも思うのだった。
また、重量のあるトラクターが土の上を走り回ることによる鎮圧での耕盤層の形成や、人為的に細かく粉砕された土の再固着などによる土の更なる凝固を引き起こす弊害もある。
この弊害は、微生物層などの目に見えない営みに影響を及ぼし、いわゆる自然な流れによる土の形成ではないがために、常に人為的な労力を加えなければならないサイクルも引き起こしている。
地球という環境は、光や空気や水、また鉱物や石油資源などなどの多大なモノを無償で与えてくれている。
その無償で与えられているモノを「あたり前」だと疑問を感じないがために、いろいろなモノが見えなくなっているのではないか?などとも思う。
自分も、もちろん、大多数の人が気が付いていない、というか、忘れている気もする。
「あたり前」ということを、たまには疑問を持って暮らすことも大事なアイテムだと思うのだった。
そんな想いで始めたのが、不耕起・無肥料での栽培への挑戦。
やっとホウレンソウが育つ土に変化を始めてくれている。
有機農業を行っている時でも、ホウレンソウの育つ環境になるのは少し時間がかかったように思う。
特に、酸性・アルカリ性のPH濃度が重要だと教わり、石灰などの投入によって調整することがあたり前だと思っていた。
でも実際は、何も施さなくても、このように育ってくれる。
教えられた常識とされるものが、見事に覆された現実だ。
このような姿を見てもまだ、肥料は必要だと言う声は、他からも自分からも聞こえてくる。
それは、今の社会の中で暮らすための賃金確保という名目があるからである。
賃金的なことを、もちろん全否定はしない。
ただ、経済というモノは、効率や不効率の中で育まれていく回転なだけ、なので、その回転スピードが変化すればいいだけのことだと眺めている。
今の回転は、無償で与えられているモノを、無限なモノという勘違いの前提で進んでいる気がする。
特にこの日本や、先進国と呼ばれる国々、もちろん自分たちという個々も含めて、物質的なものはかなりの部分で満たされているのだが、未だに前世代的な、物理的な「モノが欲しい」という前提条件の中でもがいている気がする。
時代が求めるモノは、いつの時代も変化をしている。
もうそろそろ、それなりに大きく変化をするとは思うし、それに伴った経済スタイルへの思考の変化に向けて、ちっぽけな自分からも始めようと思う。
経済は、1人では廻るものではないが、何かのスタートは、常に少人数からである。
別に、物理的な通貨スタイルを代えるということではなくとも、使い方やもらい方、その他の多くの事柄を、まずは自分の無理の無い範囲で変化を始めてみよう、と思う。
まあ、節約というか?今、あるものを大事に使うというか、これは「あたり前」のことになるのだけれども^^・・・。
こちらは、種まきを遅らせた冬越し用のホウレンソウ群。
いわゆる冬草と共生しながら、春まで待つ姿となっている。
これから寒い冬を迎え、それを越すことで創造される甘い糖分を自分たちに与えてくれる。
こんな姿を目の前に眺めながら暮らせる豊かさをありがたく想うし、これからも、この視点は大事にしたいと心から思っている。